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陰麗華(いん・れいか)

陰麗華(いん・れいか)

5年〜64年2月26日。

中国語では陰麗華(イン・リーファ)。英語ではYin Lihua。

諡(おくりな。貴人の死後に奉る名)は烈(レツ、中国語ではリェ、英語ではLie)で、後に夫の諡を重ねて光烈皇后(こうれつこうごう/グァンリェフアンホウ/Empress Guanglie)と呼ばれる。

中国の後漢王朝の初代皇帝、光武帝の皇后で、後漢第2代皇帝、明帝の母。

 

父は陰陸(いん・りく/イン・ルー/Yin Lu)。春秋時代の斉の宰相管仲(かん・ちゅう)の子孫であるようです。陰麗華が6歳の時に亡くなっています。

母の姓は(とう/ドウ/Deng)とされています。陰麗華が28歳の時に、弟の1人と共に強盗に遭い殺害されます。

 

異母兄は武将で政治家の陰識(いん・しき、又はいん・しょ/イン・シー/Yin Shi)。

同母兄弟には陰興(いん・きょう/イン・シン/Yin Xing)。

陰欣(いん・きん/イン・シン/Yin Xin)。

またもう1人、兄弟に陰就(いん・しゅう/イン・ジウ/Yin Jiu)がいますが、彼が同母兄弟かどうかは分かっていません。

妹が1人いたようですが、名前は伝わっていません。

 

南陽郡新野県(現在の河南省南陽市新野県)出身の豪族、陰氏の娘。後の光武帝となる劉秀(りゅう・しゅう/リウ・シウ/Liu Xiu)も同地出身です。

夫の劉秀(りゅう・しゅう)/光武帝

陰麗華は名家の出身というだけではなく、彼女の一族は南陽郡でも有力な一族でした。彼女の家は広大な土地を占めており、戦車、馬、家来などの数は、王族と匹敵するものだったそうです。

陰麗華は近隣でも評判の柔和な美女として有名で、劉秀も彼女に憧れていたそうです。劉秀がまだ光武帝になる前の平民だった頃、「仕宦當作執金吾、娶妻當得陰麗華(官を得られば執金吾、妻をめとらば陰麗華)」と言ったとされています。この執金吾(しつきんご)というのは、漢時代の官職のことです。

更始元年(23年)、彼女が18歳の時に、劉秀に嫁ぎました。

建武元年(25年)、20歳の時に、夫の劉秀が光武帝として即位し、皇后に次ぐ地位である貴人として洛陽に迎えられます。ですがこの時、もう1人の貴人の郭聖通(かく・せいつう)が光武帝との間に息子の劉彊(りゅう・きょう)を産んでいました。光武帝は陰麗華を皇后に擁立したいと思ってましたが、彼女が男子を産んでいないことを理由に断ります。

建武2年(26年)、21歳の時に、郭聖通が皇后に建てられ、劉彊は皇太子となります。

建武4年(28年)、23歳の時に、陰麗華と光武帝の間に、後に明帝となる劉荘(りゅう・そう/リウ・ジュアン/Liu Zhuang)が生まれます。

建武9年(33年)、28歳の時に、母の鄧氏と兄弟の1人の陰欣が、強盗に襲われて殺害されます。光武帝は彼らを悼み、陰麗華の他の兄弟達、陰興と陰就を公爵に叙すことを決めます。陰興は謙虚にもこれを断り、そして陰麗華に対し、常に謙虚でいること、そして親戚に敬意を払わないよう指示をだしました。彼女をその言葉を心に留めます。

建武17年(41年)、36歳の時に、皇后の郭聖通が、そのわがままな性格から皇后を廃され、陰麗華が皇后となります。

建武19年(43年)、38歳の時に、息子の劉荘が皇太子に立てられます。

建武28年(52年)、47歳の時に、元皇后の郭聖通が亡くなり、その後は郭聖通の末息子である劉焉(りゅう・えん)を、陰麗華は我が子のように可愛がります。

建武中元2年(57年)、52歳の時に、光武帝が崩御。劉荘が第2代皇帝明帝として即位し、陰麗華は皇太后となります。

永平2年(59年)、54歳の時に、陰麗華を悲劇が襲います。彼女の兄弟の1人である陰就の息子、陰豊(いん・ほう)が、光武帝の娘の陰綬(いん・じゅ)と結婚しましたが、彼女は傲慢で嫉妬深く、陰豊は激怒して彼女を殺害し、彼はその罪で処刑されます。陰綬が光武帝と陰麗華の娘であったかどうかは定かではありません。その後、陰就と彼の妻は自殺をしています。この様な出来事の後でも、陰就は死後も高く評価され、陰麗華義理の娘であり、明帝の妻の明徳皇后からも、その後称賛されています。

永平3年(60年)、55歳の時に、陰麗華の支持を得て、明帝は武将の馬援(ば・えん)の娘と結婚します。彼女は後に馬皇后(ば・こうごう)、または明徳皇后と呼ばれます。彼女は柔和で嫉妬しない女性であったとされ、明帝は彼女を寵愛しました。

義理の娘の馬皇后(ば・こうごう)/明徳皇后

同年、陰麗華は息子の明帝と共に、故郷の南陽郡を訪れ、そこで母方の遠い親戚達や、光武帝側の親戚達と一緒に数日間の宴を催します。

永平7年(64年)、59歳の時に、陰麗華は亡くなり、夫の光武帝と共に埋葬されました。

 

彼女の生活は、皇后になってからも質素であったようです。

彼女は、歴史の中で頻繁に言及されることはありませんが、それは彼女が皇后として大きな影響力を行使しようとしていなかったことの表れでもあります。このことから、中国史上でも優れた皇后の1人として称えられています。

また聡明な女性で、自身の一族を政治に関与させないようにしていました。ですが、彼女の兄弟達は一般的には目立たず、自ら高い地位を求めなかったも関わらず、有力な役人や侯爵になりました。

息子達に対しては、ある程度の影響を及ぼしているようですが、その影響力は歴代の皇太后に比べれば、はるかに小さいものです。

 

陰麗華と光武帝の間には、以下の子供達が生まれました。

劉荘(りゅう・そう/リウ・ジュアン/Liu Zhuang)。後の第2代皇帝明帝として即位。明帝の治世は安定していて、後漢の全盛期を現出しました。

息子の劉荘(りゅう・そう)/明帝

劉蒼(りゅう・そう/リウ・カン/Liu Cang)。兄の明帝から非常に慕われていました。また明帝の息子で劉蒼の甥にあたる、第3代皇帝章帝にも慕われていました。

劉荊(りゅう・けい/リウ・ジン/Liu Jing)。光武帝の死後、反乱を計画。また、呪詛をおこなったことが発覚し、後に自殺しました。

劉衡(りゅう・こう/リウ・フン/Liu Heng)。

劉京(りゅう・けい/リウ・ジン/Liu Jing)。礼儀正しく孝行な性格で、経学を好み、兄の明帝に最も愛されました。母の陰麗華の死後、明帝は彼女が遺した財宝を劉京に与えました。

光武帝には5人の娘たちがいましたが、その内の4人は陰麗華との間に生まれた娘のようです。