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Felicitas of Rome(ローマのフェリチータス)

ローマのフェリチータス

101年頃〜165年。

Felicitas(フェリチータス)はラテン語、そしてイタリア語での読みで、英語名ではFelicity(フェリシティー)。

キリスト教の殉教者の1人に数えられる聖人。

 

フェリチータスに関しては、その名前と殉教者であるということ以外に、11月23日にサラリア街道のマキシマス墓地に埋葬されたということが、唯一事実として知られています。

サラリア街道とは、古代ローマ街道の1つで、現在のローマにあるアウレリアヌス城壁のサラリア門を起点とし、アドリア海に面したポルト・ダスコリまでを繋ぐ、全長242kmの道のことです。

 

伝説によれば、彼女は7月10日に祝日として祝われる、7人の殉教者の母親であるとされています。また、東方正教会においては、1月25日が彼らの為の祝日とされています。

 

フェリチータスは、裕福で敬虔なキリスト教徒の未亡人で、7人の息子がいたと言われています。

慈善活動に専念し、彼女を模範として、多くの人がキリスト教に改宗したそうです。

しかしこの事が、異教の司祭たちの怒りを引き起こしてしまい、彼らは第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスに苦情を申し立てました。そして彼らは神々の怒りを主張し、フェリチータスと息子たちの犠牲を要求します。

マルクス・アウレリウスは彼らの要求を黙認し、フェリチータスは当時のローマ総督プブリウスの前に連行されました。

プブリウスは彼女に、異教の神々を崇拝させようと、様々な方法を試してみましたが、どれも失敗に終わり、母親の例に倣った彼女の息子たちも同様に、プブリウスに屈することはありませんでした。

彼らは自分たちの宗教を固く守り、その後4人の裁判官へ引き渡され、彼らは死刑を宣告されます。

彼女は、息子達の前で自分が殺されないようにと神に祈りました。もし息子達が自分の死を見てしまえば、彼らが神を否定してしまうだろうと思ったからです。

彼女の死刑は、息子達の死刑の後に行われることとなり、彼女は7人の息子達全員の死に、1人ずつ付き添いました。

息子が1人処刑される度に、彼女には自身の信仰を非難するよう告げられましたが、彼女はそれを拒否し、最後に彼女も殉教しました。

彼女は、息子が1人亡くなるたびに命を削られ、自身の死も加えて計8回も亡くなったと言われています。

 

彼女の遺体は、サラリア街道のマキシマス地下墓地に安置されました。

この地下墓地は後に拡張され、地下礼拝堂となり、1885年に再発見されます。

また、現在のイタリアの首都ローマの観光名所の一つであるコロッセオの北隣に、中世初期はティトゥス浴場が位置しており、その近くにフェリチータスを讃える礼拝堂がありました。

彼女の遺物の一部は、トスカーナ州のカプチン会教会や、ローマのサンタ・スザンナ教会に保管されています。

 

様々な学者によると、この物語には伝説的な特徴があり、旧約聖書に記載されているマカバイ7兄弟の物語に基づいているようです。

17世紀初頭以来、聖人伝や聖人崇拝を研究してきたボランディスト協会の学者達は、フェリチータスの存在に疑問を呈していましたが、最新の研究や、考古学的証拠、遺物の翻訳などから、その信憑性と歴史的真実性を裏付けているようです。

また彼女の伝説は、カトリック教会の聖人、聖シンフォローサの伝説と非常によく似ています。

伝説によると、シンフォローサは第14代ローマ皇帝ハドリアヌスの治世の終わり頃、ティブル(現在のイタリア、ラツィオ州ティヴォリ)で7人の息子と共に殉教したそうです。

フェリチータスは癒しの守護聖人であり、シンフォローサと混同された可能性があり、また同一人物であるという可能性もあります。

 

彼女のための祝日、聖フェリチータスの祝日は、「ヒエロニムスの殉教学」という古代の殉教学、またはキリスト教の殉教者の暦順リストで初めて言及されました。

この「ヒエロニムスの殉教学」は、現存する最古の殉教学の書物であり、中世で最も使用され、影響力のある物の1つでした。この書物がいつ編纂されたのか、はっきりとした年代はわかりませんが、西暦362年頃にギリシャ語で作成された編集物を題材として書かれたようです。そして、最初のラテン語による文書が430年代か440年代に北イタリアで作成されたようで、その後600年頃に現在のフランス中央部あたりで改定されました。

 

4世紀半ばには、すでに7月10日に彼らのための祝日が祝われていたそうです。

1969年に改訂されるまで、カトリック教会の聖人歴において、フェリチータスの息子達は「7人の聖兄弟」と指定されており、一部の伝統主義的なカトリック教徒達は、この指定に沿って彼らを祝い続けています。

4世紀末から5世紀初頭にかけて作曲された、「La Passio di Felicita(フェリチータ受難曲)」というものにおいては、ローマの裕福な未亡人であったフェリチータスが、キリスト教の慣行で告発されたことが語られているようです。

ローマにおいては、フェリチータスは特に子供を望んでいる女性達から尊敬されており、彼女はローマの女性の保護者として崇拝されていました。

イタリアのみならず、オーストリア、ドイツ、フランドル地方においても、彼女を崇拝していたという証拠が見つかっています。

 

絵画において、フェリチータスは7人の子供達に囲まれて立っている姿や、息子達の切断された頭を乗せた皿、または剣を持つ姿、またある時は玉座に座り、聖職者として厳粛な姿勢で子供達に囲まれている姿などで描かれています。

彼女に関する最古の絵画は、5世紀頃のものだとされていて、1812年にトラヤヌス浴場の近くで発見されました。

 

現在のイタリア、カンパニア州モンテファルチョーネでは、15世紀に、フェリチータスに捧げられた修道院があったようですが、残念ながら現在は残っていません。

同州モンテマラーノにおいては、中世初期に彼女と息子達に捧げられた教会があったという記録があります。

また、同州ヌスコにある大聖堂には、16世紀頃に彼女の殉教を描いたキャンバス画があり、これはおそらく、上記のモンテマラーノの教会にあったものだったのではないか、と言われています。

アブルッツォ州モシャーノ・サンタンジェロには、彼女と息子達に捧げられたフランシスコ会修道院があります。この修道院は11世紀に建てられ、当初はベネディクト会のものでした。

 

フェリチータには、以下の息子達がいたと言われています。

Saint Januarius(聖ヤヌアリウス)。鞭打ちで死亡。アッピア街道沿いのプラエテキスタトゥス墓地に埋葬されました。

Saints Felix(聖フェリックス)。息絶えるまでこん棒で殴られて死亡。サラリア街道沿いのプリシラ墓地に埋葬されました。

Saint Philip(聖フィリップ)。フェリックスと同じ最期を迎え、プリシラ墓地に埋葬されました。

Saint Sylvanus/Silvanus(聖シルヴァヌス)。崖から突き落とされ死亡。サラリア街道沿いのマキシムス墓地に埋葬されました。

Saint Alexander(聖アレクサンダー)。斬首され死亡。サラリア街道沿いのジョルダニ墓地に埋葬されました。

息子の聖アレクサンダーの殉教を描いた絵画

Saint Vitalis(聖ヴィタリス)。アレクサンダーと同じ最期を迎え、ジョルダニ墓地に埋葬されました。

Saint Martial/Martialis(聖マルシャル、またはマルシャリス)。アレクサンダーとヴィタリスと同じ最期を迎え、ジョルダニ墓地に埋葬されました。

彼らの埋葬場所が4ヶ所に分かれているのは、裁判の際に4人の裁判官によって裁かれたからだそうです。