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藤原璋子(ふじわらの しょうし/たまこ)

藤原璋子(ふじわらの しょうし/たまこ)

1101年〜1145年9月10日。

彼女の名前の読みは、「しょうし」または「たまこ」。

女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。

 

第74代天皇の鳥羽天皇の皇后(中宮)で、第75代天皇の崇徳天皇と、第77代天皇の後白河天皇の母。

 

父は平安時代後期の公卿で歌人の、藤原公実(ふじわらの きんざね)。

母は女官で、第73代天皇の堀川天皇と、第74代天皇の鳥羽天皇の乳母を務めた、藤原光子(ふじわらの みつこ)。

 

父方の祖父は公卿の、藤原実季(ふじわらの さねすえ)。

父方の祖母は平安時代中期から後期の貴族だった、藤原経平(ふじわらの つねひら)の娘。

 

母方の祖父は平安時代中期から後期の貴族だった、藤原隆方(ふじわらの たかかた)。

 

異母兄に、藤原実隆(ふじわらの さねたか)。

公卿、藤原実行(ふじわらの さねゆき)。彼は藤原北家支流の公家の一門、閑院流の嫡流にあたる三条家の始祖となりました。

刑部卿(ぎょうぶきょう)、藤原実兼(ふじわらの さねかね)。

異母姉に、公卿、藤原経実(ふじわらの つねざね)の妻。名前は伝わっていません。

同母兄に、真言宗の僧、覚源(かくげん)。

権中納言、藤原通季(ふじわらの みちすえ)。彼は藤原北家支流の公家の一門、閑院流の嫡流にあたる西園寺家の始祖となりました。

天台宗の僧、仁実(にんじつ)。

公卿、藤原実能(ふじわらの さねよし)。彼は藤原北家支流の公家の一門、閑院流の嫡流にあたる徳大寺家の始祖となりました。

同母姉に、公卿、藤原経忠(ふじわらの つねただ)の妻で、鳥羽天皇の乳母を務めた、藤原実子(ふじわらの じっし)。

異母姉と同様、公卿の藤原経実(ふじわらの つねざね)の妻となり、第78代天皇の二条天皇の祖母となった、藤原公子(ふじわらの きんし/こうし)。

公卿、源有仁(みなもとの ありひと)の妻。名前は伝わっていません。

異母弟に、公卿の藤原季成(ふじわらの すえなり)。

大僧生の済実(さいじつ)。

異母妹に、公卿の藤原家政(ふじわらの いえまさ)の妻。名前は伝わっていません。

 

璋子は幼少時より、第72代天皇の白河天皇と、その寵姫の祇園女御に養女として養われます。白河天皇は、1089年に息子の善仁親王(後の堀河天皇)に譲位し、白河上皇となり、その後1096年に出家し、白河法皇と名乗ります。璋子の父の公実は、白河法王と従兄弟の関係でした。

養父の白河法皇

璋子が7歳の時、父の公実が病死します。

永久3年(1115年)、彼女が14歳の時に、藤原北家出身の藤原忠通(ふじわらの ただみち)との縁談が持ち上がります。ですが、璋子の素行に悪い噂があったため、忠通の父、公卿の藤原忠実(ふじわらの ただざね)はこの縁談を固辞し、白河法王の不興を買うことになります。

この「璋子の素行」については諸説あり、璋子に箏の稽古をつけていた、公家で歌人の藤原季通(ふじわらの すえみち)が、璋子と関係を持ってしまったというものがあります。また、白河法皇がある日、僧尼を統領する官職である権律師(ごんのりっし)の増賢(ぞうけん)を御殿へ招いた時、増賢は寺院へ入ってまだ間もない1人の少年を伴ってやって来ました。璋子はその少年を気に入り、関係を持ってしまったようです。

ですが、息子と璋子の縁談を忠実が固辞した一番の理由は、璋子が初潮を迎えた13歳の時、当時61歳の白河法皇が璋子に性の手解きをし、自身の養女である璋子を寵姫の1人にしてしまったという、璋子と白河法皇の異常な関係にあったようです。

永久5年12月13日(1118年1月6日)、彼女が17歳の時に、父方の従弟にあたる、第74代天皇の鳥羽天皇に入内し、その4日後には女御の宣旨を受けます。その1ヶ月ほど経ったのち、彼女は鳥羽天皇の中宮となります。

夫の鳥羽天皇

元永2年(1119年)5月、彼女が18歳の時に、第一皇子の顕仁親王(あきひとしんのう)が生まれます。彼は後に、第75代天皇の崇徳天皇となります。

保安3年(1122年)6月、彼女が21歳の時に、第一皇女の禧子内親王(きしないしんのう)が生まれます。

保安4年(1123年)正月28日、彼女が22歳の時に、白河法皇の意向により、夫の鳥羽天皇が譲位し、息子の顕仁親王が崇徳天皇となります。この時、崇徳天皇は数え5歳(満3歳7ヶ月)でした。

天治元年(1124年)11月24日、彼女が23歳の時に、院号を宣下され、以降は待賢門院と称します。同年に、第二皇子の通仁親王(みちひとしんのう)が生まれます。

天治2年(1125年)5月、彼女が24歳の時に、第三皇子の君仁親王(きみひとしんのう)が生まれます。

大治元年(1126年)7月、彼女が25歳の時に、第二皇女の統子内親王(とうし/むねこないしんのう)が生まれます。

大治2年(1127年)9月11日、彼女が26歳の時に、第四皇子の雅仁親王(まさひとしんのう)が生まれます。彼は後に、第77代天皇の後白河天皇となります。

大治4年(1129年)、彼女が28歳の時に、養父の白河法皇が77歳で崩御します。この時璋子は懐妊中で、同年に第五皇子で末子の本仁親王(もとひとしんのう)を産みます。

白河法皇の死を機にして、璋子の人生は暗転していきます。

息子の崇徳天皇に譲位をした、夫の鳥羽上皇が、白河法皇が崩御して以降、院政を敷き始めます。後ろ盾を持たない幼い崇徳天皇は、孤立していきます。

鳥羽上皇は、白河法皇よって関白を罷免され、逼塞(ひっそく)していた藤原忠実を再度起用し、忠実の娘の藤原泰子(ふじわらの たいし/やすこ)を皇后に立て、更に、白河法皇の後ろ盾を失っていた璋子に変わり、藤原得子(ふじわらの とくし/なりこ)を寵愛し始めます。彼女は後に、鳥羽上皇の皇后となります。当時は、中宮も皇后も、正妻を意味するものでした。

保延5年(1139年)8月17日、彼女が38歳の時に、鳥羽上皇が得子が産んだ躰仁親王(なりひとしんのう)を公式に皇太子として立てます。躰仁親王は、鳥羽上皇の第九皇子で、この時生後3ヶ月でした。

2年後の永治元年12月7日(1141年1月5日)、彼女が40歳の時に、鳥羽上皇は出家し、鳥羽法王となります。同年、鳥羽法皇は息子の崇徳天皇に譲位を迫り、躰仁親王を第76代天皇の近衛天皇として即位させます。

しかしこの時期に、鳥羽法皇の皇后で近衛天皇の母である得子を標的としたとされる呪詛事件が発覚し、璋子が裏で糸を引いているとう噂が流れるようになります。そしてこの頃から、近衛天皇に譲位をした崇徳上皇が、白河法皇と璋子との子であるという噂も囁かれるようになります。ただしこれに関しては、鎌倉時代初期の説話集『古事談』にのみに見られる記述なので、真偽は不明です。

権勢を失った璋子は、康治元年(1142年)、彼女が41歳の時に、自らが再興した、京都市右京区の律宗の寺院、法金剛院にて落飾します。

久安元年(1145年)8月22日、彼女が44歳の時に、御所の三条高倉第にて崩御しました。夫の鳥羽法王は三条高倉第に駆けつけて、璋子を看取りました。璋子の臨終の際、鳥羽法王は読経の時に打ち鳴らす仏具の一つ、磬(けい)を打ちながら、大声で泣き叫んだといいます。

 

璋子が崩御した後のことですが、久寿2年(1155年)7月23日、璋子の没した年から10年後、近衛天皇が17歳で崩御します。そして璋子の第四皇子の雅仁親王が、第77代天皇の後白河天皇となります。

保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御します。その後、朝廷が後白河天皇派と崇徳上皇派に分裂し、政治の主導権、そして皇位継承をめぐって起きた内戦、保元の乱が勃発します。

 

璋子と鳥羽法王の間には、以下の子供達が生まれました。

顕仁親王(あきひとしんのう)。数え5歳(満3歳7か月)で第75代天皇、崇徳天皇として即位しますが、父である鳥羽法王の意向により、異母弟の躰仁親王に譲位します。第76代天皇の近衛天皇となった躰仁親王はこの時3歳(満2歳5か月)、崇徳上皇は22歳でした。近衛天皇は生後間も1ヶ月ほどで崇徳上皇の養子となっていたので、崇徳上皇は院政を敷くことを考えていましたが、譲位の宣明には、近衛天皇は崇徳上皇の皇太子ではなく、皇太弟であると記載されていたため、院政を敷くことは叶わなくなります。これは父の鳥羽法王と、近衛天皇の母の藤原得子による陰謀であると言われています。その後、崇徳上皇は保元の乱で後白河天皇派に敗れ、讃岐へ下り同地で亡くなります。日本三代怨霊の1人として知られています

長男の崇徳天皇

禧子内親王(きしないしんのう)。10歳の時に、賀茂斎院に定められます。賀茂斎院とは、賀茂神社に奉仕した皇女のことです。11歳の時に斎院に入りましたが、その約半年後に病気のため退下し、その1ヶ月後に亡くなります。両親から深く愛され、大変美しい姫宮であると知られていたそうです。

通仁親王(みちひとしんのう)。6歳で亡くなります。彼は生まれつき目が見えなかったと言われています。

君仁親王(きみひとしんのう)。誕生後数日で昏睡状態に陥り、その後意識を取り戻したものの、重度の障害が残ります。彼は自力で起き上がることも出来ず、生涯にわたって満足な会話を持つことも出来なかったようです。公式行事に参加したのは、誕生した翌年の一度きりでした。16歳の時に出家し、19歳で亡くなりました。

統子内親王(うし/むねこないしんのう)。3歳の時に斎院に定められ、平安京北辺の紫野に置かれた本院、紫野斎院に入りますが、その3年後に病気を患い退下します。弟の後白河天皇の准母として立后され、その後院号宣下を受けます。母の璋子から相続した仁和寺法金剛院で出家します。姉の禧子内親王と同じく、幼少時より並ぶものの無い美貌の姫宮であったそうです。64歳で亡くなります。

雅仁親王(まさひとしんのう)。29歳の時に、第77代天皇、後白河天皇として即位します。息子の守仁親王(もりひとしんのう)に譲位した後、34年に渡り院政を行います。彼の治世では、保元の乱や平治の乱などの戦乱が相次ぎ、息子の守仁親王と平家との対立により、幾度も幽閉され院政停止に追い込まれましたが、その度に復権を果たします。新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調し、その後の公武関係の枠組みを構築しました。また、仏教を厚く信奉し、晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組みました。日本の歌曲の一形式である今様を愛好し、文化面にも大きく貢献しました。65歳で亡くなります。

四男の後白河天皇

本仁親王(もとひとしんのう)。真言宗仁和寺の第5世門跡。璋子は本仁親王の誕生後、仁和寺の第4世門跡で白河法皇の第四皇子、覚法法親王(かくほうほっしんのう)との間で、本仁親王の入寺を相談します。6歳の時に仁和寺に入り、その後出家し覚性(かくしょう)と称します。和歌にも造詣深く、歌人でもあった彼は、40歳で亡くなります。