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Nefertari(ネフェルタリ)

Nefertari(ネフェルタリ)

生年月日は不詳で、紀元前1255年頃に没しています。
彼女の名前は、ネフェルタリ、またはネフェルトイリで、全名はNefertari-Meritenmut(ネフェルタリ・メリテンムト)。Nefertariは「美しい人(伴侶)」を意味し、Meritenmutは「女神ムトに寵愛されし者」という意味です。

ネフェルタリという名前に関しては、他にも「最も美しい人」「その中で最も美しい人」「女性の中で最も美しい」とう意味が、より正確に訳されているという説もあります。

 

古代エジプト第19王朝第3代ファラオ、ラムセス2世の最初の正妃。神后の称号を持ち、この称号によって、多くの富を授けられたとされています。

 

彼女の出自については、王族出身ではなく、エジプト貴族の一員であったらしいということ以外は、今のところ不明です。

考古学者によれば、彼女の墓で発見された珠飾りに、前王朝のファラオ、アイ(第18代王朝第14代ファラオ)のカルトゥーシュが用いられていました。カルトゥーシュとは、古代エジプト建築において、王の名を彫った文字を囲む楕円形の輪郭のことです。これが用いられていたことを根拠に、彼女がアイの一族出身だったのではないかという説が唱えられています。

 

ネフェルタリは13歳の時に、当時15歳で皇位を継承する前のラムセス、後のラムセス2世と結婚しました。

夫のラムセス2世

ラムセス2世には100人以上の妃がいましたが、ネフェルタリが長男のAmun-her-khepeshef(アメンヘルケペシュエフ)を出産すると、彼女と同時期にラムセス2世の妃となったイシスネフェルトよりも早く、ネフェルタリがラムセス2世の最初の正妃となりました。

彼女は上エジプトと呼ばれる、現在のカイロ南部からアスワンあたりまでの地域で、最も重要な地位にあった妃でした。

ちなみに下エジプトと呼ばれる、現在のカイロ南部から地中海までのナイル川デルタ地帯の地域では、ラムセス2世のもう1人の正妃、イシスネフェルト1世が最も重要な地位にあったと考えられています。

彼女の正妃としての在位期間は25年ほどであるとされ、公的記録に残されているのは、在位24年目の行事に出席したのが最後となっています。

彼女は在位25年ほどでこの世を去りました。

死後は王妃の谷(QV66)に埋葬されました。

 

彼女の墓は、1904年に発掘され、王妃の谷で今まで発見された墓の中で、最も保存状態の良い墓とされています。そしてその壮麗さから、「古代エジプトのシスティーナ礼拝堂」と呼ばれています。彼女の墓は、王妃の谷で発見されたものの中でも最大の墓の1つです。

彼女の墓が発見、発掘された際、金のブレスレットの一部や、イヤリングやペンダントの小さな部分などが墓から出土し、それらのいくつかは現在アメリカのボストン美術館に所蔵されています。カイロのエジプト博物館には、彼女の墓から出土したウシャブティ(副葬用のミイラ形小像)のいくつかが所蔵されています。

また、現在イタリア、トリノのエジプト博物館に所蔵されている一対のミイラ化した脚は、骨の構造と人物の年齢に基づき、ネフェルタリのものである可能性が高いようです。

 

ラムセス2世の妃達の中で、彼女は唯一、自分の神殿であるアブ・シンベル小神殿を持っている妻として有名でした。

エジプト南部にあるアブ・シンベルにおいて、古代エジプト神話の愛と美の女神、ハトホルと、ネフェルタリ自身を称え記念して、アブ・シンベル神殿の建設が命じられました。岩に掘られた2つの大きな神殿で構成されています。神殿の建築は、ラムセス2世の治世の早い段階に開始され、彼の治世の25年目までに着工されたようです。完成したのはその10年ほど後になりました。

ですが、小神殿の中の3分の2以上の壁画はラムセス2世自身の壁画となっていて、主祭壇の下の壁画でも、ラムセス2世1人だけがハトホル女神の庇護を受けています。

そのようなアブ・シンベル小神殿ですが、王の像と同じ大きさのネフェルタリの像が築かれていて、このような構図は稀なものです。しかし新王朝にいては正妃の地位がより重要になったこともあり、第18王朝では少なくとも2回の前例があります。

王の妃達は、石像や壁画などでは膝までの大きさで表現されますが、ネフェルタリの場合はラムセス2世と同じ大きさで築かれており、彼にとって彼女がいかに重要であったかを示しているとされています。

小神殿の柱には、『偉大なる王の妻、ネフェルタリ・メリテンムト。太陽は彼女のために輝き、そして彼女に生命と愛を与えた。』と、彼女について言及した碑文が残されています。

この他にも、控えの間の壁に、彼女について言及した文が書かれています。

彼女はアブ・シンベル小神殿が完成する前に亡くなってしまったため、アブ・シンベル小神殿は未完成となりました。アブ・シンベル大神殿やルクソール神殿などの他の場所では、ネフェルタリは伝統的な例に倣い、夫の足元に立つ姿で描かれています。

 

彼女は高度な教育を受けており、象形文字の読み書きの両方が出来ましたが、これは当時としては非常に珍しいことでした。

彼女はこの技術を外交活動に活用し、当時の他の著名な王族と交流を持ちました。

 

彼女は以下のような多くの称号を保持していました。

🔸偉大なる賛美

🔸甘美な愛

🔸恵みの淑女

🔸大王の妻

🔸彼の最愛の人

🔸2つの土地の寄付人

🔸全ての土地の寄付人

🔸強き雄牛の妻

🔸神の妻

🔸上下エジプトの愛人

また、ラムセス2世も彼女を「太陽が輝く人」と名付けました。

 

ネフェルタリとラムセス2世の間には、以下の子供達が生まれました。

Amun-her-khepeshef(アメンヘルケペシュエフ)。ネフェルタリの第1皇子で、ラムセス2世の第1皇子でもあります。彼は元々は「Amun-her-wenemef(アムンヘルウェネメフ」と呼ばれていましたが、父ラムセス2世の治世の初期に名前をアメンヘルケペシュエフに変更し、ラムセス2世の治世20年頃に「Seth-her-khepeshef(セスへルケペシェフ)」と名前を変えたようです。以前は、セスへルケペシェフはラムセス2世のもう1人の息子と考えられていました。ファラオの次に栄誉的な称号であった「王太子」の称号や、「軍隊の司令官」など、いくつかの称号を持っていて、彼が軍隊で高い地位を占めていたことを示しています。また、外交官としてラムセス2世の治世21年のヒッタイトとの平和条約締結後の外交関係に関与しています。異母姉妹、または同母妹と結婚し、息子をもうけます。

長男のアメンヘルケペシュエフ(中央)

Pareherwenemef(パレヘルウェネメフ)。ネフェルタリの第2皇子で、ラムセス2世の第3皇子。史上初の公式な軍事記録に残された、古代エジプトとヒッタイト間で起きた戦争「カデシュの戦い」に参戦したことが、アブ・シンベル神殿に描かれています。彼は「陸軍最初の勇者」と呼ばれ、後に「馬の監督」となりました。異母弟のメントゥヘルケペシェフと共有した地位である、「王の最初の戦車乗り」となります。

次男のパレヘルウェネエフ

Meryre(メリラー)。ネフェルタリの第3皇子で、ラムセス2世の第11皇子。彼は幼くして亡くなったとされ、ラムセス2世の同名の第18皇子は、彼の名前を取って付けられたと考えられています。

Meryatum(メリアトゥム)。ネフェルタリの第4皇子で、ラムセス2世の第16皇子。彼はラムセス2世とネフェルタリとの間に生まれた末子である可能性が高いようです。彼の姿はアブ・シンベル小神殿に描かれています。彼は父ラムセス2世の治世20年目に、アラビア半島とアフリカ大陸北東部の間にあるシナイ半島を訪れ、その後は現在のエジプト、カイロ近郊に存在した古代エジプトの都市、ヘリオポリスの大祭司に任命され、その職を20年間勤めました。

四男のメリアトゥム

Meritamen(メリトアトメン)。ネフェルタリの第1皇女で、ラムセス2世の第4皇女。彼女はラムセス2世の皇女達の中で、おそらく最も知られている人物とされています。彼女は多くの称号を持っていて、後に異母姉のビントアナトと共に、「偉大なる王の妻」となります。

娘のメリトアトメン

Henuttawy(ヘヌトタウィ)。ネフェルタリの第2皇女で、ラムセス2世の第7皇女。彼女の像はアブ・シンベル小神殿に建てられています。

娘のヘヌトタウィ

その他、ネフェルタリはラムセス2世の第2皇女のBakemut(バークムト)、第3皇女のNefertari(ネフェルタリ)、第5皇女のNebettawy(ネベトタウィ)の母であるという可能性が指摘されています。ラムセス2世の第3皇女のネフェルタリは、アメンヘルケペシュエフの妻になったとされていますが、彼女とアメンヘルケペシュエフが同じ母から生まれたのか異なる母から生まれたのかは不明です。また、2人の間に生まれた息子とされているセティについては、2人の子供か少なくともアメンヘルケペシュエフの子供、またはラムセス2世と側室との間の子という説もあります。

娘の可能性があるバークムト(左)。右は実の娘のメリトアトメン。

娘の可能性があるネベトタウィ